風船葛

精神が限界を迎えたので、会社近くの花屋に寄った。産毛でふかふかした淡い花があればいいなと思っていて、実際あったんだけど、真っ先に目を惹いたのは風船葛の鉢だった。風船葛といっても置いていたのはあの緑のやつじゃなくて、籠盛りの果物みたいにカラフルな実が上向きについた、変種にしたって変過ぎる個体だった。ネームラベルがなかったら何かわからなかったと思う。とにかくそれに一目惚れして、値段も聞かずに包んでもらった。ちょっとびっくりするような額だった。

鉢植えと一緒に、取扱説明書です、と渡された手書きの小冊子があった。特に疑問もなく貰ったが、帰って開いたら10ページ以上もあった。神経質な花屋だ。説明書の1ページ目には、「実を浮遊させるための生育方法」という見出しがついていて、その後びっしりと細かな規則が書かれていた。どれくらい細かいか伝えるために一部抜粋すると、「水やりは一日5回、鉢を秤に乗せて、蒸発したぶんだけやること」「塵を吸わせないよう極力布製品を近づけず、部屋は毎日水拭きすること」「朝昼晩、規定の音楽を聞かせること(曜日毎に聞かせるべき演目の表が付いている)、ただし23時以降は一切の音を立てないこと」「風船葛の前で着替えないこと」等々。風船葛は上向きだった実を項垂れ、早くも己の繊細さを主張していた。心が折れかけたが値段が値段なので、完璧に風船葛の世話をしてみせると腹を決めて、説明書を丸暗記した。それからはすべての習慣が風船葛のために捧げられた。世話しただけ実の色は濃くなり、ぴんと背伸びするように浮遊してくれた。私の情緒は不思議なほど安定した。

風船葛の実は日ごとに鮮やかさを増した。部屋にある色を取りこんで凝縮しているのかと思うほどだった。浮力もそれに比例し強くなっていった。やがて上向きの力に耐えられなくなった花柄が切れ、実は開けていた窓から外へ飛んでいった。

すべての実が鉢植えから解放されたのを見届けた瞬間、突きぬけるような感情に襲われた。混乱のあまり意味のない音を叫んだが激情は収まらず、強すぎる喜びは発狂と紙一重なんだなと悟りながら、着替えて外へ飛び出して、遠くの空に浮かぶ風船葛に向かい、無限の体力を盲信して走り続けた。