性質と手段

表現とは、ある概念に対して最適な手段を選んで出力することだ、という認識でいた。例えば無数の色が湧く泉があったとして、湧いてきた色水を見て、この色は凍らせようとか花に吸わせようとか雲を作ろうといったように、適した手段を与えるみたいな(説明するならせめて現実に存在するものに例えたかったがしっくり来る例がない)、でもそれはちょっと違うかも。

イデアは、意識に上る前から出力形式が決まっている。つまり、「思いつく」の前駆体である抽象世界から抜け出たイメージはある程度完成していて自身の手段を持っており、私が(意識的に)出力形式を選択する余地はない。これを別の方法で表現するなら、と考えることはいくらでもできるが、それは出力Aでの試行錯誤であって、出力Aと出力Bが色を同じくしているわけではない。無から思いつくことと、完成のために最適な手段を選び取っていく中で思いつくことは、同じ「思いつく」ではない。

無から生まれたものが形を定めるまでの過程は、例えば同じガラスであっても、鋳造ガラスと吹きガラスとで全然違う。鋳造ガラスは鋳造ガラスとしてほぼ完成した色と形でポンッと生まれる。連想によって別のイメージが出てくるときも、写真を切り替えるみたいにシャッシャッと現れ、元のイメージは固定されたままでいる。対して、吹きガラスは生まれた直後からアメーバみたいに形を変える。一つのイメージはどんな方向にも動けて、シームレスに別の形を提案してくる。イメージの生まれ育ち方に、技法自体の性質(鋳造ガラスは修正の利かなさ、吹きガラスは柔軟さ)が反映されているようで面白い。言葉で語られるものはもっと違って、背景の有無でまず決まる。イメージに背景があったら言葉でしか出力できないし、なければ言葉になり得ない。ガラスは空間に縛られず存在するが、物語はその場、その文脈でのみ生きられる。これも性質の反映。

でもその後の、どう作ろうか考える段階では全部一緒だ。いわゆる創作物だけじゃなく仕事でも生活でも、やっていることは一緒。ここでの試行錯誤に、無から思いつくときの別世界に攫われるような感動はない。その代わり小さな感動が連鎖して、ゲームやスポーツみたいに瞬間に没頭できて、一番現実に近い位置を生きられる。

『奇病庭園』

特に好きな作家は、現世の意味を徹底排除するがゆえの平等さを以て、モチーフを扱う。だからそういう作品からある場面を切り取って残酷、と片づけてしまうのは違う。例えば何かを無意識に捨てるとき、その対象がタバコの吸殻だろうが死んだ虫だろうが生きた犬だろうが人の赤子だろうが本当はどれでもいいのだが、すでに存在する現世の倫理を打ち消すために、モチーフに既存の意味体系は適用されないと示すために、赤子を捨てることを選ぶとする。それでも前提にある平等さが保持されているか。構築された世界がテンプレートな悪趣味や残酷美を基盤とせず、その世界にしか適用され得ない秩序を有するかどうか。どちらに振り分けるかは読み手の知識と感性に委ねられる。

私にとってどのような作品でそれが実現されているかというと、登場人物たちの個人的なまなざしを感じさせない作品だと思う。人々は個の集まりでなく集合体として、語り手は語る人でなく観測装置として存在する。物事はただ起こるべくして起こり、喜びや悲しみは常に概念そのものとして(あるいはそれ自体喜劇として)片付けられ、モチーフがただ存在する。美しいかどうかすら作品内では語られない。筋らしい話の筋もない。だからこそ読み手はファンタジーの世界で、現実世界で不意に感じるような感動を、各々見つけることができる。

(登場人物たちが個の意志を表していてなお「モチーフの平等さ」が実現されている作品はもう、妖精文庫シリーズにあるみたいな、読み手が処理できないほど凄まじい質と量のモチーフが作品内に散りばめられ、その集合体がハウルの動く城のように自立している長編作品だと思うんだけど、どうだろう。私が処理しきれないこういう作品を咀嚼して、色彩と輪郭の解像度を保ったまま没入できる人がいるかも。もしいたなら羨ましすぎて発狂しそうだ。一体どんな感覚なのか?)

川野芽生の新作がめっちゃいい。前作もよかったけどそれよりも好き。川野芽生にこんなこと言うのはおこがましいが、彼女が物語を拾い集めてくる世界と、私が時折足を踏み入れる世界は、どこかで繋がっているように感じる。だから読んでいて、ああここで遊んでいる人は私以外にもいる、と安心する。山尾悠子作品集成や、高原英理の短編を読んだときもそうだった。この人たちのファンは皆同じような安心感を得ているのでは。ここには誰もいないが、ここを知っている誰かはたくさんいる。

快楽主義

他者の作品、自然や光、整えられた空間、動きのある瞬間、飛躍した言葉によって、イメージの世界に新しい何かが現れるとき、そしてそれを現実世界に具現化する術を思い描けたときの、あの高揚感と全能感のためだけに生きている。手を動かして何かを作るのも、あの瞬間に比べれば余韻に過ぎない。逆に言えば、余韻のエネルギーだけで何週間も根詰められるほどに最初の快が大きい。

新しい何かは思いがけなければ思いがけないほどよい。庭園美術館へ行って、窓枠の文様をトレースした器を思いつくより、オデッサの階段の乳母車を観て、スケボーに乗った少年が虹びたしになった高層ビル街で走り続けるジオラマを思いつくほうが熱が高い。きっかけと、現れたものの距離が遠いほど愛おしい。距離の遠さがその間に孕まれる空間の広さだから。自由に遊べるだけの空間があるのは、この上なく豊かで幸福だ。ところで、人に遊びに誘われると絶対受けてしまうのはここに理由がある。断れないのではなくて、どんな集まりであれあの瞬間に導かれるきっかけが潜んでいるかもしれない、と期待してしまう(ある種の友人を除いて、人といるときにそうなることはないけど)。人といるときにそうなっても、叫びだしたいのをこらえて黙っている。一人でそうなっているときはだいたい、うわああああああああと言っていて、少し落ち着いたら、やけにクリアな脳内映像に「その角度はダサくない?」「こっちの色もあり」「それそれそれ!」など元気に話しかけている。

最近は、宙に浮かぶ氷水の平皿と、お外に引きこもった犬のフロアランプと、もちもちの丸い水(一つ一つに乳白の星が描かれている)を敷きつめたパステルカラーの蓋物が現れた。どれも愛おしい。存在してないから無理だけど、見せびらかしたい。しかし完成が近づくにつれお粗末さに冷めてしまうんだよな。いやでも、素材に対する知識が深まったことで具現化する手段が増えて、思いつける幅は広がりつつある。うまくなりたい。

冬の備忘録

【2/28】
影を描くことは同時に輪郭を描くことであり、ある箇所を塗らないことは光を描き出すことであり、線は物体の流れを反映するが物体自体でなく、背景から物体を浮かび上がらせる。
何かを描写することは常に、何に注目するかを浮かび上がらせることであり、同時に何を描写しないかを選択することでもある。ただし描かれなかったものが一切存在せず、描かれたものがすべて描かれた通りに存在するというわけではない。描かれずとも言葉の背景にもやもやと立ちのぼるものがある。それを見込んで効果的に、過不足なく描かなくてはいけない。
表現するとき常に自覚していたいのは、世界のすべてはグラデーションに過ぎなくて、輪郭などないということ。世界から何かを抽出した時点でその人の血が通い始めるということ。美しさは、すでに世界に存在しているそれをすくいだしてくる類のものでなく、人間のまなざしから醸し出されるものであるということ。

【2/26】
ガラスも物語も結局はアイディア先行(もちろん、作ってる間に変容はしていく)で、そのアイディアは生まれた段階ですでに深い感情を纒っているので、私が作業する以上、それに準じるものは生まれ得ず、もしあるとすればそれは作品でなくさらなるアイディアなのだ。他者に作品を発表する意味は、ここにあるのかもしれない。成り立ちのわかっている世界に神秘性はなく、神秘性のない世界が神秘性のある世界を超えることはない。私は私の世界で、思いがけないものを現実より見つけられるし、それに対する高揚感は具現化したいという欲望へ直結するから表現をやめないが、神さまじゃない以上、世界と作品のギャップを埋めることができないことに苦しみ続ける。

【2/24】
有機的な装飾による絢爛さを振りまきながらも、冷たく硬質な輪郭を保ち、その骨子によって、訳の分からなさを規定し、開かれた幻想を描くということ。

【2/23】
意識的に計算された、しかし直観的な言葉と質感の組み立てによって、「わからないが何となくわかる」モチーフの連関を作り、世界を描き出すことを目標にしたい。大まかな図に、言葉を描き込んでいく織物のような作業がよい?

幻想における贅は、現実世界で想像しうるレベルのものでは意味がない。それは幻想でなく願望である。むしろ現実に想像しうる贅の極致がのっぺりと一様な油膜のように見えてしまう精神状態(豪奢な形容詞を過剰に用いることでその空虚さは表現できたりする)でどう心を動かされるか、に幻想の贅がある。その意味で、文化圏を変えるというのは一つの手法である。中国の貴族が西洋の人魚を差し出されるみたいな。

【2/20】
他者のすべての行動の動機に対して好意的な見方をする割に被害妄想が根付いてるの、世界と自分とのつながりを実感できていないために、「自分なら相手をこう思う」が「相手が自分をこう思う」に直結しないからだろうな 私の視点と他者の視点は共有されるものではなく、鏡が作用しない。私は世界と繋がっていない故に常に他者から責められるが、世界と繋がっていないから他者を肯定する。この癖を自覚して「冷静に考えれば私の存在は責められていない」と納得することはできても、実感は伴わない。責められていないことを例外的に実感できたのが、毎日知らん人と強制的に会って話しまくるという荒療治?だった。あのときはそもそも繋がっていないものをむりやり繋げていた(ように錯覚させていた)。

【1/31】

ぽこぽこと湧いてくる非実在世界をきちんと拾いあげて言語化していると、一ヶ月がやたら長く感じられる。空想世界では、現実世界の一時間の間に数日〜一週間も過ごすことができるから。あとは単純に、旅行へ行くと一日を長く感じられるのと同じような現象が起こっている気がする。

 

この時期の状態を死ぬまでゆるやかに保っていたい。今こうでないことに焦る。この時期はもっと意味のある理由で焦っていた。焦りがなければ意味のあるものは作れない。恋人をもつことによる強い安心感を忌避するのは、安心すると焦ることさえ忘れてしまうとわかっているからなのかもしれない。それは洗脳と同じくらい怖い。

音楽室

音楽室で、友人がピアノを弾いていた。グランドピアノの開いた屋根から何らかの粒子の集まりが、プリズムで分解された光線のように束になってあふれ続け、磨かれた床の上に積もっていった。色とりどりのそれは折り重なった幅広のリボンにも見えた。奥の部屋からドラムセットを引っぱり出してきた友人は、スツールに腰掛けるなりプロさながらの足さばきを披露した。スティックが空を切るたびに、打音から生まれた様々な形のボタンが弾き飛ばされ部屋中に散らばった。いつもアコースティックギターを背負っている友人は、ギターバッグから愛用のそれを取り出してかき鳴らし、ブリッジから絹のような糸を延々と垂らし続けた。別の友人は、私何も弾けないんだよねと言いながらスレイベルを探しあててしゃらしゃら鳴らし、雪の結晶のような細工が連なった青白いレースを編み出した。

ちぐはぐのカルテットは、クラシックでもポップスでもロックでもジャズでもない、知らない音楽を奏でていた。強いて例えるなら遠い国の民族音楽のような、原始的で、あっけらかんとしていながらも一筋の哀愁を滲ませるようなメロディだった。全く洗練されていないのに、音は不思議と調和しているのだった。私は教室から裁縫セットを持ってきて、輪になった友人たちの真ん中にクッションを積んで寝そべった。それから手を伸ばして床に積もったピアノリボンを引き寄せ、適当にカットし、アコギ糸で縫い合わせて広大な布を拵えた。それから手の届く範囲にあるドラムボタンをかき集めて星のように散らし、三段にしたベルレースで一辺の端を飾った。これは自室の窓にでも掛けようと思う。カーテンを作り終えても音楽は続いていた。友人たちは、具現化された色とりどりの音に埋もれて見えなくなっていた。

ガラス

赤と青の鉱物は極寒などものともせず増殖する。気温が氷点を上回る頃には、硬骨魚の跡地が柘榴石に、軟骨魚の跡地がロンドンブルートパーズによって埋めつくされ、墓は群れをなして泳ぎだしそうなほど鮮やかに浮かび上がっていた。怒りのチェス盤はとっくに絶命していた。水面の網目模様を錆びた銅線に変え、全体は灰褐色の母岩に成り下がり、縁のぐるりから方解石化した鮫の歯を突き出していた。原始世界なら魔除けの神として信仰を得たかもしれないが、人類はまだ発生していないかすでに絶滅している。やがて地殻変動が生じ、母岩は筋肉みたいに盛り上がって纏っていた銅線をばらばらにちぎった。地上に振り落とされた銅線の残骸は、ひどく驚いて裏切られたような気持ちになった(なにせ何万年もの間母岩を封じるという緊張を強いられていたのだ)が行き場もないので、不服のまま岩山のふもとに潜りこんだ。銅線は血の匂いがする粉を吹き出し、風化しそうなほど衰えていた。しかし幸運なことに豊かな地下水を吸って息を吹き返し、松の根になった。一方蛍光グリーンを示していた鮫の歯たちは岩の熱にやられて丸く溶け、冷え固まり、カボションカットを施した半貴石のようになっていた。執念深い松の根は、途方もない努力の果てに岩を突き通し、輝く魚群を木っ端微塵に荒らし、山頂に転がっていた梅のような玉を残らずすくって枝につけ、盆栽のポーズを決めた。

ガラス

エナメルホワイトの卵殻に水がかかって、下半分のぽってりした部分に罅が入った。網目状の隙間から、蜂蜜みたいな色をした液体が見えている。月の重力に慣れていた卵の中身は地球において引きこもることを許されず、ぱらぱらと殻とともに漏れ出てしまう。細かな破片は着地した途端に溶けて角を丸くした。液体は破片の絨毯が編み出した迷路を埋めて殻と融合し、一枚の薄板になり、板は空を反射して青く波打つチェス盤になった。大海原の水面に酷似したチェス盤の上では、駒である半透明の魚やクジラやくらげや鮫やクリオネウツボタツノオトシゴやナマコ、ウミウシ、エビ、カニ、構造色をもつ貝類が跳ねたり浮かんだりしていたが彼らは基本的に姿を見せない上、升目が風が吹くたび変わり続けるので一向にゲームが進まない。ではチェス盤の裏で何が起こっているかというと、海洋生物たちが己の形状を世に残そうと身体を板にこすりつけているのである。当然その身は削れていき、一番硬い骨の部分が深く刻まれることとなる。勝手に死屍累々の光景を描かれたチェス盤は怒って裏返り、陽のもとに彼らの彫刻を晒してやった。生物たちは一瞬にして乾き、誰も完全な姿を盤に彫り込めないまま、中途半端に残った骨や肉をミイラにした。ひどい腐臭にチェス盤も嫌になってきた(そんな事態は想定していなかった)ので、どうにかするよう空にお祈りした。猛烈な雨が降ってきて死骸を洗い流し、チェス盤を水たまりに沈めた。最後の一滴が水たまりの上に落ちた瞬間氷河期が訪れ、飛沫は花びらみたいに円形に散ったまま凍りついた。