『奇病庭園』

特に好きな作家は、現世の意味を徹底排除するがゆえの平等さを以て、モチーフを扱う。だからそういう作品からある場面を切り取って残酷、と片づけてしまうのは違う。例えば何かを無意識に捨てるとき、その対象がタバコの吸殻だろうが死んだ虫だろうが生きた犬だろうが人の赤子だろうが本当はどれでもいいのだが、すでに存在する現世の倫理を打ち消すために、モチーフに既存の意味体系は適用されないと示すために、赤子を捨てることを選ぶとする。それでも前提にある平等さが保持されているか。構築された世界がテンプレートな悪趣味や残酷美を基盤とせず、その世界にしか適用され得ない秩序を有するかどうか。どちらに振り分けるかは読み手の知識と感性に委ねられる。

私にとってどのような作品でそれが実現されているかというと、登場人物たちの個人的なまなざしを感じさせない作品だと思う。人々は個の集まりでなく集合体として、語り手は語る人でなく観測装置として存在する。物事はただ起こるべくして起こり、喜びや悲しみは常に概念そのものとして(あるいはそれ自体喜劇として)片付けられ、モチーフがただ存在する。美しいかどうかすら作品内では語られない。筋らしい話の筋もない。だからこそ読み手はファンタジーの世界で、現実世界で不意に感じるような感動を、各々見つけることができる。

(登場人物たちが個の意志を表していてなお「モチーフの平等さ」が実現されている作品はもう、妖精文庫シリーズにあるみたいな、読み手が処理できないほど凄まじい質と量のモチーフが作品内に散りばめられ、その集合体がハウルの動く城のように自立している長編作品だと思うんだけど、どうだろう。私が処理しきれないこういう作品を咀嚼して、色彩と輪郭の解像度を保ったまま没入できる人がいるかも。もしいたなら羨ましすぎて発狂しそうだ。一体どんな感覚なのか?)

川野芽生の新作がめっちゃいい。前作もよかったけどそれよりも好き。川野芽生にこんなこと言うのはおこがましいが、彼女が物語を拾い集めてくる世界と、私が時折足を踏み入れる世界は、どこかで繋がっているように感じる。だから読んでいて、ああここで遊んでいる人は私以外にもいる、と安心する。山尾悠子作品集成や、高原英理の短編を読んだときもそうだった。この人たちのファンは皆同じような安心感を得ているのでは。ここには誰もいないが、ここを知っている誰かはたくさんいる。