幸福の総量

嫌いな友人はよく、「幸福の総量は皆等しく決まっているから」と言う。......つまり? 「今幸せな人は早い段階で幸福を使い切ってしまうし、そうでない人は晩年に幸福が訪れるの。ペースが違うだけで、皆幸福の総量は同じってこと」。あー......前も聞いたけど、その「幸福」は主観的なものなの、客観的なものなの? 幸福の総量が等しいとするためには定量的な基準が必要だけど、それはどこにあるの? それは誰が決めて、誰が管理して、誰が証明しているの? 寿命が違っても総量は変わらないの? 生まれた瞬間亡くなってしまった人の幸福はどうなるの? 友人は私のすべての質問をにこにこしながら聞いて、でもそういうものだから、と言った。苛々する。この人と会うのもうやめよう、と密かに決意して、前回も前々回も同じ決意をしたことを思い出した。誘うタイミングが絶妙で、なんか会っちゃうんだよな。

何が一番苛々するかって、友人は運・才能・容姿・環境すべてにおいて恐ろしく恵まれていて、それを自覚した上で人類幸福量平等説を推しているということだ。自分が今これだけ幸福なのだから、いま幸せでない人々も同じだけ幸せになるのでしょう、と信じきって安心している。世界のどこを探しても、こんな傲慢は見つからないだろう。

意地悪な気持ちになって、じゃああなたほど幸福な人もいないから、これから大変な不幸が訪れるのかもねと言うと、そうなの、それがとっても怖いのと、不幸のふの字も知らないような顔で頬杖をついた。今この瞬間に友人を即死させて約束された不幸を帳消しにし、友人自身を幸福量平等説の反証にしたい衝動に駆られたが、そうするとその反証を突きつけるべき相手もいなくなると気づいて思いとどまった。