快楽主義

他者の作品、自然や光、整えられた空間、動きのある瞬間、飛躍した言葉によって、イメージの世界に新しい何かが現れるとき、そしてそれを現実世界に具現化する術を思い描けたときの、あの高揚感と全能感のためだけに生きている。手を動かして何かを作るのも、あの瞬間に比べれば余韻に過ぎない。逆に言えば、余韻のエネルギーだけで何週間も根詰められるほどに最初の快が大きい。

新しい何かは思いがけなければ思いがけないほどよい。庭園美術館へ行って、窓枠の文様をトレースした器を思いつくより、オデッサの階段の乳母車を観て、スケボーに乗った少年が虹びたしになった高層ビル街で走り続けるジオラマを思いつくほうが熱が高い。きっかけと、現れたものの距離が遠いほど愛おしい。距離の遠さがその間に孕まれる空間の広さだから。自由に遊べるだけの空間があるのは、この上なく豊かで幸福だ。ところで、人に遊びに誘われると絶対受けてしまうのはここに理由がある。断れないのではなくて、どんな集まりであれあの瞬間に導かれるきっかけが潜んでいるかもしれない、と期待してしまう(ある種の友人を除いて、人といるときにそうなることはないけど)。人といるときにそうなっても、叫びだしたいのをこらえて黙っている。一人でそうなっているときはだいたい、うわああああああああと言っていて、少し落ち着いたら、やけにクリアな脳内映像に「その角度はダサくない?」「こっちの色もあり」「それそれそれ!」など元気に話しかけている。

最近は、宙に浮かぶ氷水の平皿と、お外に引きこもった犬のフロアランプと、もちもちの丸い水(一つ一つに乳白の星が描かれている)を敷きつめたパステルカラーの蓋物が現れた。どれも愛おしい。存在してないから無理だけど、見せびらかしたい。しかし完成が近づくにつれお粗末さに冷めてしまうんだよな。いやでも、素材に対する知識が深まったことで具現化する手段が増えて、思いつける幅は広がりつつある。うまくなりたい。