冬の備忘録

【2/28】
影を描くことは同時に輪郭を描くことであり、ある箇所を塗らないことは光を描き出すことであり、線は物体の流れを反映するが物体自体でなく、背景から物体を浮かび上がらせる。
何かを描写することは常に、何に注目するかを浮かび上がらせることであり、同時に何を描写しないかを選択することでもある。ただし描かれなかったものが一切存在せず、描かれたものがすべて描かれた通りに存在するというわけではない。描かれずとも言葉の背景にもやもやと立ちのぼるものがある。それを見込んで効果的に、過不足なく描かなくてはいけない。
表現するとき常に自覚していたいのは、世界のすべてはグラデーションに過ぎなくて、輪郭などないということ。世界から何かを抽出した時点でその人の血が通い始めるということ。美しさは、すでに世界に存在しているそれをすくいだしてくる類のものでなく、人間のまなざしから醸し出されるものであるということ。

【2/26】
ガラスも物語も結局はアイディア先行(もちろん、作ってる間に変容はしていく)で、そのアイディアは生まれた段階ですでに深い感情を纒っているので、私が作業する以上、それに準じるものは生まれ得ず、もしあるとすればそれは作品でなくさらなるアイディアなのだ。他者に作品を発表する意味は、ここにあるのかもしれない。成り立ちのわかっている世界に神秘性はなく、神秘性のない世界が神秘性のある世界を超えることはない。私は私の世界で、思いがけないものを現実より見つけられるし、それに対する高揚感は具現化したいという欲望へ直結するから表現をやめないが、神さまじゃない以上、世界と作品のギャップを埋めることができないことに苦しみ続ける。

【2/24】
有機的な装飾による絢爛さを振りまきながらも、冷たく硬質な輪郭を保ち、その骨子によって、訳の分からなさを規定し、開かれた幻想を描くということ。

【2/23】
意識的に計算された、しかし直観的な言葉と質感の組み立てによって、「わからないが何となくわかる」モチーフの連関を作り、世界を描き出すことを目標にしたい。大まかな図に、言葉を描き込んでいく織物のような作業がよい?

幻想における贅は、現実世界で想像しうるレベルのものでは意味がない。それは幻想でなく願望である。むしろ現実に想像しうる贅の極致がのっぺりと一様な油膜のように見えてしまう精神状態(豪奢な形容詞を過剰に用いることでその空虚さは表現できたりする)でどう心を動かされるか、に幻想の贅がある。その意味で、文化圏を変えるというのは一つの手法である。中国の貴族が西洋の人魚を差し出されるみたいな。

【2/20】
他者のすべての行動の動機に対して好意的な見方をする割に被害妄想が根付いてるの、世界と自分とのつながりを実感できていないために、「自分なら相手をこう思う」が「相手が自分をこう思う」に直結しないからだろうな 私の視点と他者の視点は共有されるものではなく、鏡が作用しない。私は世界と繋がっていない故に常に他者から責められるが、世界と繋がっていないから他者を肯定する。この癖を自覚して「冷静に考えれば私の存在は責められていない」と納得することはできても、実感は伴わない。責められていないことを例外的に実感できたのが、毎日知らん人と強制的に会って話しまくるという荒療治?だった。あのときはそもそも繋がっていないものをむりやり繋げていた(ように錯覚させていた)。

【1/31】

ぽこぽこと湧いてくる非実在世界をきちんと拾いあげて言語化していると、一ヶ月がやたら長く感じられる。空想世界では、現実世界の一時間の間に数日〜一週間も過ごすことができるから。あとは単純に、旅行へ行くと一日を長く感じられるのと同じような現象が起こっている気がする。

 

この時期の状態を死ぬまでゆるやかに保っていたい。今こうでないことに焦る。この時期はもっと意味のある理由で焦っていた。焦りがなければ意味のあるものは作れない。恋人をもつことによる強い安心感を忌避するのは、安心すると焦ることさえ忘れてしまうとわかっているからなのかもしれない。それは洗脳と同じくらい怖い。