無敵の儚さ

昨日夜から寒いのが嬉しくて、そわそわしながら毛布と薄手の布団を被って寝て、起きたときも寒くてベッドが心地よかったので最高の気分で出勤した。空気が冷たいと身体のほてりが際立つ。それは放課後の空き教室に一人でいる子どものようで、寂しくて安心する。それから冬に経験した膨大な一人の時間を思い出して、感情が深いところで静止する。氷の張った池で水底に留まる魚みたい。

夏は今、冬は過去と感じる。夏に対してのそれは「今を生きるぜ!」というポジティブな意味でなく、単に何も覚えていないから今しかない、という意味だ。夏は暑くて不快で余裕がなくて、自分が世界に対してむきだしにされていて、その時その時を受容することしかできず、感覚はどこにも留められないまま消え去っていく。だから夏の記憶は、他人の予定帳に似て味気ない。冬は寒さに引きずりだされるように感覚が蘇り、今をも過去にする。いくつもの冬の、(ものすごく主観的かつ感覚的な)「正しい」過去に覆われる。積層した過去に書き足すように今を記録して、奥行きを見る。冬は一人でいても誰かといても、世界に干渉されていない。厚手のコートみたいに纏った記憶が、見えないバリアになってくれているんだろうか。冬が終わらなければいいのにな。