『感情の物性』

韓国SF。タイトル見て「うわーっ」と声が出た。感情の物性。昔考えてた、というか今も考えてる概念。ありがとう...

〈シアワセ体〉〈ゾウオ体〉など、感情が小石のような形で発売されて、それが社会現象になる物語。結局その正体は麻薬だったんだけど、人々はなぜ物性をもとめるのか、なぜ意味を通した感情ではなく感情そのものなのか、なぜ〈ユウウツ体〉や〈キョウフ体〉などのネガティブな感情を買うのか、ということに言及していた。2つ目まではまあそれはそうという答えだったけど、3つ目に対しては「感情に支配される/支配することの違い」という視点が与えられていて腑に落ちた。自傷行為に救われる理由もそれだ。痛みに支配されるか、痛みを支配するか。前者は終わりが見えないけど、後者は、少なくともそれを味わっている間は、終わりがあると思える。

私は村田沙耶香に傾倒していた時期、感情を摂取する代わりに自然発生的感情を永久に失う感情剤を定義して、それを飲むことが強制され管理されるようになった世界で、自然発生的感情を失わないために抗う人の生き様について考えていた。でも自然発生的感情を誰も持っていないなら、自分だけそれに抗い続けられる気がしないよね。両者の違いを同時に知る人も存在し得ないし。仲間がいたとしても...仲間がいたら、違うかな。何にせよ「あなたが嬉しい(悲しい)から私も嬉しい(悲しい)」というコミュニケーションが成り立たない世界はとっても寂しい。それとは関係なく最近は感情のカラーボールについて考えている。