『おしゃべりな脳の研究』②

読み終わった。モダニズム文学作品(その限りではないけど)において外言と内言の融合が試みられている、という指摘でいろいろと腑に落ちた。

ライ麦畑でつかまえて』を読んだあと、しばらくホールデンの口調と考え方に思考がつられてうるさくなるのは、文体が特徴的だからだとずっと思っていた。あれは外言と内言が融合していたからなのか。金原ひとみとかもそう。どれだけ物語に没頭していても、「」つきの外言なら自分が聞き手になるから登場人物と距離をとれるけど、地の文で登場人物の内言を垂れ流されるとそれが自分の内言に置き換わってしまう。思考が文体に乗っ取られている間、考えるというより考えさせられる感覚が強くなるのは、内言が「内的なしゃべり」と「内的な聞こえ」両方の性質を持っていることが関係していそうだ。黙読は完全に「聞こえ」だから、黙読時の声と自分の内言を混同した場合、内言も「聞こえ」の強いものとなり、普段より受動的な思考だと感じられる。そして本来の内言は補助的な言葉であって完全な文章ではないので、文学という形で表現された内言に乗っ取られたとき、文量が増えてうるさく感じる。これじゃん。

じゃあ、ライ麦ほど強烈でないにしても、三人称小説を読んだあと地の文につられて、自分の行動を逐一ナレーションするように思考が乗っ取られることがあるのは? あれはたぶん、登場人物の方に感情移入してるうちに自分が地の文にナレーションされている感覚になって、それがすぐには抜けないという現象だ。向こうが私の中に入りこむか、私が向こうへ行くか。こちらへ入りこんだ思考はもうこちらへ出てきてしまっているからなかなか引っ込んでくれないが、ナレーションはあくまで向こうの役割なのですぐ収まる。