『fishy』

人間の嫌な部分を煮詰めて煮詰めて鍋にこびりついたギトギトをこそげ取ったような小説だ。読む毒物だ。流産した人にざまあみろって言うな。しかし最悪な気分になるのにするする読める。ページを繰ってしまうのは、脳の騒音であるナンセンス思考がおそろしい精度で言語化されているからだ。文章と自分の思考がシンクロして、読みながら心中を読まれているような錯覚に陥る。それに激しく安心する。本を閉じてもしばらくは思考が文体に支配され、自分の中の嫌な部分を引きずり出されて頭がうるさくなる。それが静まらないうちにまた読み始めてしまう。たちが悪い。

たちが悪い、で高原英理の『ガール・ミーツ・シブサワ』を思い出した。文学における女性差別について。

「......もちろん限度超えていて読むのも厭になる小説もあるが、最初からこれは許せないと感じる作品は大抵、『内容が許せなさすぎ』なのではなくて、単に『あまりに下手なので、作品のよさよりも作者自身が前提としている差別が透けて見えてその低劣さが嫌になる』だけのことだ。つまりそれは小説として失敗していて読むにも値しない駄作なので、そんなのばかり挙げてきて『女性差別だ』と言い出しても、文学全体にはびこる性差別を批判することにならない。一番怖い敵は魅力的な美しい差別の唆しだ。」

敵だ、と言ってはいるが、こうした類のものに正面切って敵だ、と言える人なんていないんじゃなかろうか。だって美しいんだもん。美しさは正義も理想も善悪も全部なぎ倒して黙らせて、人々の奥に入りこむ。醜さを安堵で包むのも、差別を美しさで包むのもたちが悪いが、そう思わせたもん勝ちだと思う。