敬意というもの

「恋人が〇〇なのは私に敬意をはらっていないからだ」と話していた友人のことを考えていて気づいたのだが、私はそういう文脈での「敬意をはらっていない」に厳密には共感できていない。

「誠意」はわかる。それは、事象に対する/行動に込められる思いを評価するときに使われる。いや辞書的な意味は知らないが、個人的にはそう理解していて、「誠意がない」と人に怒ることもできるし、共感もできる。「敬意」は人に対して使われる。つまり相手を一人の人として尊重するということで、相手の大切なものを大切にする、理解しようと努める、想像力を働かすなどといった行動に表れる。「誠意」の背景にも「敬意」がある。私もできる限り、周りの人に敬意をはらいたい、という意思はもっている。

ただ、自分ごととして「敬意がない」という怒り方はできない。「敬意がない」に該当する事象が自分にあっただろうか、と考えてもぴんとこない。そもそも自分に敬意がはらわれるべきと思っていないからだ。これは自分と世界が切り離されている感覚に由来している(自己肯定感の低さとかではない。世界が私に関わっていないからこそ、私は自己を肯定できている。また話はずれるが、「怒らない人は優しいのでなく見捨てているのだ」みたいな言説も、見捨てるとかでなく元々繋がっていないから怒らないだけではと思っている。)例えば私は知りあった人々のことを会っていないときも考えるが、人々が私と会っていないときも私を認識していると実感するのはむずかしい。私を尊重してくれたらもちろん嬉しい、でも尊重される前提がないので、「敬意がない」がぴんとこない。「失礼」も然り。と、ここまで書いて思ったんだけど、もしかしてみんな敬意をはらわれていないことに怒っているのではなく、傷ついた感情と距離をとるために、「嫌な思いをした」を「敬意がない」に置きかえて話しているのかな、わかんない......仮にそうだとしても、共感はできない。何にせよ私は、友人は(私じゃないのだから)敬意をはらわれるべきだし、理不尽に傷ついてほしくもないから、怒っている。

敬意への鈍感さによって見落とされた、人々が私に示していたであろう愛について思うと悲しい。でも、見落とさない愛もある。見落とさない愛をずっとくれる人もいる。自分は他者から敬意をはらわれるべき存在だと信じるのはもう無理な気がするけど、せめて見落とさなかったものは抱きしめていきたい。そして傷ついていることに気づいていない友人に気づけるように、はらわれるべき敬意というものに敏感になりたい。