ずーっと何か考えていて、飛びまわるイメージに急き立てられるように動き続けて力尽きて、それでも脳は休めなくて、考えることがなければ考えごとを探して頭を回して(そういうときはろくなことを思いつかないが)、動けないことへの罪悪感でいっそう頭がごちゃごちゃする、というのを繰り返している。いつか脳の多動性に追い詰められて衝動的に死にそうだ。愚かな......いや、これは自覚しているから大丈夫。そんな愚かな死に方はしない。

根底には「許されたい」がある(実際に許されたいのかはさておき、「許されたい」は脈絡なく唐突に頭に浮かぶので、へえ私って許されたいんだと思う)が、いったい何に許されていないんだろう。目指す先は確かにあって、それは世で成功するとか何かの分野で人々に認められるとかではなく、一人で、抽象的な世界で完全を得るということなので、私が本当の意味で私に満足することは永遠にない。目指すことで生きながらえており、生きるために目指している。それにしたって低地の沼で一生泥遊びしながら雲を見上げているみたいだ。私が私のためにやりたくてやっているあらゆることは、まるで着実に山を登っているような錯覚をくれるけど、振り返ると微塵もゴールに近づけていない。目に見える目標は手段でしかないし、それが適切なのかもわからない。ゴールに近づいている証拠が欲しくて、何かしら表現しようとしているのかもしれない。ゴールなんて端からない気もするけど。それでもとにかく、動き回るしかない。「許されたい」から逃げなくては。あと、孤独は絶対に必要で、この世の恋愛ほど孤独の対極にあり私を機能停止させるものはないので、しない方がいいということを忘れないでいたい。なんだか今の私は動き回っている私より高い次元にいて、目の前のことに没入する姿を見下ろしながらあれこれ言っているようだけど、これだって、疲れた身体と倦んだ精神によって自動生成された何の発見もない文章なので無になってしまう(高校生の頃、上記内容を別の言葉で話していたのを思い出した)。元気になりたい。元気になったらこの記事の意味もよくわからなくなる。「落ちてるときはだめだけど回復期が一番豊かになります、だから大丈夫」って昔の私がメモに残していた。なんて優しい言葉なんだ。落ちてるときだって別にだめじゃないよと言ってあげたい。ふかふかに包んで寝かせてあげよう。寒い夜で良かった。