性質と手段

小説書くのってだるいな〜なんでだるいんだろう? と考えていて、そもそも空想を言葉で出力するのって非効率的なんじゃないか? と思い至った。

美しい言葉からもたらされるイメージが実際の映像を超えることはないから、自分が表現したい何かも言葉以外では再現できない、だから小説(詩でも戯曲でもいい)という形式が最適だ、とずっと思っていた。でも読むことと書くことは、起こっていることが全然違う。読むときの言葉→イメージへの変換は無意識に行える。継次的に流れ込んでくる情報も、すでにある場に付け足していくことで同時処理的に把握できる。一方書くときのイメージ→言葉への変換は、現実的な作業が要るしその対象となる情報が多すぎる。だから「小説は何を書くかより何を書かないかだ」とか言われてるんだろうけど、現実を舞台にしているならともかく、存在しない景色を書くならやっぱり一から組み立てていかないといけなくて途方もない。それに同じ場にあるものは本当はすべて同時に知覚している(ように感じられている)のに、言葉では順番にしか伝えられないからもどかしい。一番苦しいのは、非現実の世界イメージが書いた言葉によって規定され続けるせいで、書けば書くほどずれていくこと。ずれないように言葉を精査すると書けなくなる。この「ずれる」をもう少し噛み砕くと「解像度が上がりすぎる」という表現になる。イメージに明確な言葉を与えると一時的にすべてのピントがあってしまうから、注目しているものだけにピントがあっていて他がぼんやりしている元の認識状態とずれるのだ(すべてにピントが合う不自然な認識状態は読むときにも、特に読み始めによくなるが、場がイメージできたら消失して、動いているものだけにピントが合うようになる)。そもそも言葉じゃないものを言葉に変換しているんだから、それはずれることでしか存在し得ないんだから仕方ない、と納得するしかないけど、ずれ続けるのもずれたものを読み返すのも苦痛だ。読み返すうちに、初めイメージしたものは書いた言葉に上書きされて薄れていく。書くことでしか生まれなかったものを見られる喜びは、イメージが生まれた瞬間の鮮やかさとは程遠い。色褪せながら別の方向へ走り出したものに対しては、書かずに腐らせてしまった話に対するそれと似た感情しか持てない。

要するに書きたくないんじゃん書くのやめろ、と、ここまでが先週の考え事。

その後、言葉への変換に限界があるなら漫画はどうか? と思いついて、ネームのようなものを描きはじめた(中学生のとき幼なじみと文通ついでに便箋の裏でリレー漫画描いてたのを思い出した)。これがめちゃくちゃ描きやすくてびっくりしている。当たり前なんだけど、見えているものを見えているまま描けるのがいい。空想の中で飛び回るカメラも、言葉にするときは描写の細かい順番とかタイミングとか考えてたけど、漫画ならそのまんま再現できる。あと場面転換も楽。間とか動きとかも直で表せて楽。ちなみに、ここで描けると言ってるのはせいぜい顔のついた丸人間で、人が見て伝わる感じでは全然ない。自分で見ると脳内補完されてしっくりくるので感動している。何であれイメージとずれない(ように感じられる)まま形にしていけるのって楽しい。すでに自分の中に存在している空想を何故わざわざ表現したいのかと考えていた時期もあって、そのときは輪郭がほしいという理由で納得していたけど、本当は理由なんかなくて、表現する行い=快だからそうしたいだけなんだな。あと、人に伝えたいことなんかないんだから、メッセージ性とか考えだすと破綻する、と肝に銘じておきたい。そんなものは一切ないし、なくていい。しかし漫画ってすごい。とりあえず、飽きずに最後まで描いてみよう......。