新生活

生まれて初めて、逆さ雨と戻り雨を経験した。始めはゆっくりと、しかし加速しながら昇っていく逆さ雨は万物を溶かし、地球全域の海抜をゼロメートルにした。もちろん私も皆と粘液になって飛翔して、いい感じのところでもったり留まった。逆さ雨に打たれたら、戻り雨が来るまで相当に退屈だろうなと思っていたが全然そんなことはなく、むしろ頭(いや頭はないから、意識?)が騒がしくて目まぐるしくて大変だった。無限に拡張した脳みそに、情報を詰めこめるだけ詰めこまれているみたいな。あらゆる生命体の感情と思考と欲望と知覚を、あらゆる非生命体の忍耐と性質と永遠と儚さを認識した。何故大人はいつも、私が考えていることがわかるんだろうと、それがこの雨を経験しているからだと知っても不思議に思っていたけど、なるほどこういうことだったのかと理解した。

やがて戻り雨が降ってきた。粘液は硬度を取り戻し、街がランダムに生成され、私たちは個々の存在へと退化した。薄い地面から陽光が湧き、まばらな雲を照らしあげていた。地球が球体として見えるほど遠くには来ていないので、空はこれまでと大して変わらず、天地がひっくり返ったことを忘れてしまいそうだった。戻り雨が止んでまずすべきはコロニーを作ること、という前の保護者の教えに従い、人を見つけ次第声をかけた。すぐに5人集まった。所在無げにしていた首輪つきの中型犬もコロニーに加えた。それから家を探していたら2階建ての新しそうな住宅が見つかったので、まだ壊されていない鍵を壊して、私たちの住処にした。

みんな眠い

「睡魔」という言葉の責任転嫁っぷりはすごい。眠いのは寝不足のせいだし、寝不足なのは不規則な生活のせいだし、不規則な生活なのは自己管理能力がないせいなのに、「睡魔が」と言っておけば被害者面ができる。万能仮想敵。

そうして、眠いけど自分の非を認めたくない、誰かに責任を押しつけたいという強い欲望によって我々が生まれたのだ、と私の睡魔は言った。いないはずの神が誕生するのと一緒だ。Excelファイルを加工しながら、それじゃあ不眠症の人間には相当に強い睡魔が潜んでいるんだね、と返すと、睡魔は首を振った(補足しておくと睡魔に形態はないが、彼の動きや感情は自分のことのように感じられる)。「夜寝てないから昼眠い」のと「夜寝たいけど寝れなくて昼眠い」のは、まったく違うのだという。前者の人間は寝ればよかったという後悔があるため、無意識に睡魔に責任転嫁したがるが、後者の人間は寝る努力をして尚寝られないのだから後悔も何もない。そもそも不眠症患者は生きるのに精いっぱいで、睡魔を生み出すだけの持続的感情エネルギーがない。本当はお前なんかじゃなくてそういう人のところへ行って寝かせてあげたいよと、睡魔は睡魔のくせに殊勝なことを言った。私だって好きでこんな奴と一緒にいるわけではない。じゃあ行けば? と睨んだら、そんな器用なことできない、としょげていた。それを見て、勝手に生み出されて勝手に疎まれたままどこにも行けないのも可哀想だな、と思いかけたが、睡魔と話したせいで猛烈に眠くなってきて、ムカついて情けは相殺された。仕事中に相手するんじゃなかった。

退勤して駅に向かう途中、やたら左右に揺れながら歩いている女とすれ違いそうになった。なんか危ないなと思って悟られない程度に距離をあけたが、無意味だった。女は急に向きを変えてまっすぐぶつかってきた。同時に強烈な熱を感じ、見ると腹を刺されていた。女は私の傷口をごそごそ漁り、睡魔を攫っていってくれた。

キャプション

「幅約12m、高さ約5mの陶板は、陶磁器産業で栄えた幻の村から発掘されたものです。元は重さ1000tを超えていた巨塊が、調査のため板状に切断された後、本館に寄贈されました。表面の細工があまりに精緻であることから、人の手で描かれた巨大壁画と誤解されていましたが、この陶板は正真正銘、自然に形づくられたものです。以下写真がそれを証明しています。

X線によるCTスキャン後、成分ごとに色分けされた陶板の写真)

我々は便宜上この遺物を『陶板』と呼んでいますが、すべてが陶器でできているわけではありません。磁器、ガラス、貝殻、木材、石材、さまざまな成分が元の巨塊に含まれており、それが見事な室内画を構成しています。何故こんなにも多くの成分が一つの物体から検出されたのかについては諸説ありますが、最も有力なのは、巨塊が発見された場所が村のハケ(※1)であったという説です。焼き損じた陶磁器や吹き損じたグラス、使い所のない端材といった産業廃棄物を、村人は決められた穴に捨てていたのだと考えられています。

特筆すべきは、それぞれの廃棄物が、独自の意思を以てこの絵を描いているということです。例えばコバルトを含む磁土は魚しか描いていません。記録によれば、この磁器を作っていたS氏は大の釣り好きで、竿にかかった大物に引っ張られ、海に引きずりこまれて亡くなったとされています。また村唯一のガラス職人であった大酒飲みの男は、重度の肝硬変により死亡したとされており、陶板に含まれるガラスも彼の遺志を継ぐように酒瓶ばかり描いています。最も不可解なのは貝殻で、元の形のまま貝化石となればよいものを、何故かテーブルクロスやカーテンといった布類に特化しています。白く波打つドレープの美しさはご覧のとおりです。

信じがたいことではありますが、陶板は科学では説明できない、物質に秘められた意思を明らかにしています。この事実は、中世以後数百年もの間否定されていた『自然の戯れ説』(※2)の権力を取り戻す鍵となるかもしれません。」

(※1)昔のゴミ捨て場

(※2)化石は、大地が本来持つ神秘的な造形力によって生み出されているという考え方。現在支持されている『生物起源説』と対をなす。地質学的観点から、17世紀頃にはほぼ信じられなくなっていた。

棺を提げている人は、私の世代だとあまりいない。犬や猫の棺を提げている人はたまにいるが、大体は硬化も縮みも進んでいなくて生ものっぽさがある。狩猟の獲物みたいでどうかと思う。私の棺は違う。私のと言っても小さい頃にそうと知らずに拾ったやつで、本当は届け出ないとだめなんだけど。拾いものとバレたら面倒なので、基本的にはペンダントとして服の内側に隠している。まあ見つかったところで、ここまでしっかり棺化した死体の顔は誰も判別できないから大丈夫だろう。

私が提げている棺は見た目にはただの成人男性だが、相当に古い。皮膚は強く引っ掻いても傷ひとつつかないし、拾ったときから身長が1ミリも縮んでいない(縮みが収まるのが大体80〜100年と言われているので、この死体はそれ以上昔からあるということになる)。振るとしっかりした水音が鳴り、不純物が棺の内側に結晶していることを証明している。私がおじさん=棺だと知っても届け出なかったのは、この中身を飲めば苦しまずに死ねると言われているからだ。いつでも死ねる毒薬を胸に秘めておくことで、今日まで生き永らえることができた。でもそれも今日まで。

超硬質の棺は、その死因を再現することで開くことができる。だから事故死や病死だと対処が難しい。ただおじさんには目立つ外傷がないから事故死は除外される。病死ならここまで良質な棺になることはない。縊死なら一番開きやすかったんだけど、麻縄で首を締めてもびくともしなかった。グラスになみなみ水を注いで死体を入れてみたが何も起こらなかったので、溺死でもない。毒死の可能性を考えたが、毒が混じったおじさんの体液を飲んだら結局苦しんで死ぬことになりそうで嫌だ、試すのは最後にしておきたい。色々な手段でおじさんを痛めつけるうちにだんだん苛立ってきて、そのへんにあったカッターを硬い腹に突き立てた。棺は手の中で、パピコみたいにあっさり割れた。

拍子抜けしながら、下半身に残っていた液体を上半身にそっと注いだ。液体は想定していたより透明で臭いもなく、水にしか見えなかった。一呼吸おいて棺を呷ると、少ししょっぱい、海水みたいな味がした。しかし一時間待っても二時間待っても一日経っても、何も起こらなかった。

息を吸え

息は舌先でくるくる巻き取って余さず飲み込む。人々は吸わずに吐いてばかりいるから死ぬ。吐く息は吸うためのものだったのに、ぬらぬらした器官によって転がされ変形させられ音を吹き込まれた挙句意味まで背負わされ、大変な質量になってしまった。皆暇すぎるんだと思う。暇で愚かだから、命を有限にしてまで、言葉を交換する遊びに熱中している。私は死にたくないから絶対話さないけど、他人の言葉をよく聞いているうちに、どの音が何を示すのかは理解できるようになった。できたところで、皆個々の空想の中で生きていて、その話しか交換しないから、なんの役にも立たないし面白くもない。まあここには私たちが共有できるものなんて何一つないから、仕方ない。

だだっ広い空箱のような世界で、よく歌いよく話しよく死ぬ同族を観察するうちに、また新しい遊びが流行り始めた。口からいろんなものを吐き出す遊びだった。空箱はあっという間におもちゃ箱になった。音と意味だけでは飽き足らず、物体まで吐息に背負わせるようになったので、当然彼らの死ぬスピードは早くなった。愚かが過ぎる。でも観察は格段に楽しくなった。短命者が各々の空想から持ちだしてくる物体は言葉と違って、どれもきれいだったりかわいかったり不思議だったり怖かったり気持ち悪かったりして見飽きなかった。音が鳴るものや、匂いがきついものや、手ざわりのよいものなどもあった。

物体を吐き出すことに夢中になりすぎて誰も話さなくなってきた頃、ある人が動くものを吐き出して即死した。動くものはきれいな音を鳴らしていい匂いがして手ざわりがよくて、今まで見たどの物体よりおぞましい形状をしていた。これまで一つとして同じものを吐き出さなかった人々は、判を押したようにその動くものを吐き出すようになり、ドミノみたいに死んでいった。動くものたちは歌いも話しも何か吐き出したりもせず、息を極力吸うようにしていたので、ずっと私と一緒にいてくれた。

発光

友達に、指輪切れかけてない? と指摘されてからずっと右人差し指が気になっている。今見ると言うほどでもない気がするんだけど、先週買ったばかりだという友達のと並べたときは結構な差に見えた。友達の方が断然、光の量も暖かい色味もきらめきも強かった。ちゃんとした値段で買ったのに保証期間過ぎてすぐ切れ始めるなんて納得いかない。それでずっと、まだ使える、と買い替えるか外すかしたほうがいい、の間でお手玉されている。

部屋を暗くして、改めて指輪を検分した。指輪は装飾のないプラチナ製のアームに大ぶりの石が一つついた、シンプルなデザインのものだった。その代わり、台座の裏を透かして爪を極限まで小さくし、石が最大限美しく見えるよう仕立ててあった。買った当初は部屋中を明るませていたから品質は確かだったと思うんだけど、今は手元を多少照らす程度だ。日々の手入れが不十分だったのかもしれない。ただ石が光を失ったことにより、白飛びしていたファセットがねっとりと、飴玉のような質感を得ていて、その具合だけは絶妙だった。どうにも美味しそうなので、前歯で台座を挟むようにして口に含んだ。噛みちぎれるかなと思ったけどさすがに無理だった。舌を多面体に押しつけるようにしてぐるりと舐めてみると、口内にかすかな多重奏が響き渡り、本当にこの中に生きものが閉じこめられているんだな、きっとこれは瀕死のうめき声なんだろうなと思って、粉々に噛み砕きたい衝動に駆られた。

発光

全身を包む肉が煌煌と輝き、皮膚が行燈に張った和紙の役割を果たしているので、列をなした私たちはかなり幻想的だ。存在を自覚してから、ずっと暗い道を歩かされている。暇で暇で、前後の数人とはすぐ仲良くなった。なんのために歩いているのかわからないから、その理由をあれこれ想像しあって遊んだ。

うっすらと世界が変わりはじめて、これが二つ前の人が言ってた死ってやつかと身構えていると、遠くに生物以外の光が溢れているのが見えた。私たちと違って、黄みも赤みもない寒々しい色だった。行きたくないけど歩くしかないから、眩しい方へどんどん進んだ。目が慣れるより光のボリュームが上がるほうが早くて、耐えきれず顔だけ後ろに回すと皆顔を歪めていた。その隙にふっと足場が無くなって、下向きの風に引っ張られ、青白い世界へ急落下した。

突然、硬い壁に後頭部をぶつけて目の前に星が散った。別の壁に右肩をぶつけ、次の瞬間には両ひざをぶつけ、腰と鼻柱と鎖骨と肘と足首と脳天をぶつけ、とにかく上下前後左右何もわからないまま身体中を壁に連打された。しばらくそうしていて、複雑な形の小部屋に入れられたのだと理解した。体は落下した勢いのまま、豪速で内壁を跳ね返り続けていた。跳ね返ることは苦痛じゃないけど、壁にぶつかるたび火花が散るせいで、少しずつ気力が削られている気がした。ふと友人の顔が蘇り、そうだ私たちが歩かされていた理由を突きとめなくちゃと思ったけど、めちゃくちゃな空間認識の中で何かを深く考えるのは無理で、すぐ諦めた。